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江戸散歩 南町奉行所〜北町奉行所〜八丁堀与力・同心組屋敷跡

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日本は明治維新から農業国から工業国へ舵を切り富国強兵の号令の元、それまであった日本の伝統、文化を欧米文化に変え150年以上、西洋文明に追いつけと、悪しき日本の文化風習を、見よう見まねで西洋風に文化を変え今日に至っています。

その努力もあってか、すっかり日本古来からあった文化、風習も殆どの日本人が解らなくなって来ました。

例えば正月、もう数十年前から正月らしさが殆ど感じられなくなって来ていています。

これは何も文化風習だけではなく都市の景観についても同じようなことが言え、それまでの江戸の景観も時代と共に変わってきました。

江戸時代にあった史跡を訪ね歩いて見ようかと思い立ち、何処が良いかと思案したところ遠山の金さんや大岡越前の職場であった北町奉行所や南町奉行所の跡地なら東京のど真ん中なので巡り易いかと思い、今回は日本の警察の前進である奉行所跡地を訪ねてみました。

奉行所とは、今で言うところの裁判所、区役所、警察署などの機能を併せ持った行政で「奉行所」と昔は言っていました。

因みに「奉行」とは武家の役職名です。

当時江戸には北町奉行所と南町奉行所の2箇所あり、月番制で交互に奉行所を開けていました。

月毎に交代で働いていた訳ではなく、奉行所を開けるのが月番制て、閉まっている月でもちゃんと仕事はしていました。

時代劇の『遠山の金さん』や『大岡越前』などで観るお裁きの場所がこれら北町奉行所や南町奉行所となります。

令和の時代になって今はその跡地がどうなっているのか興味があり跡地を探しに散策して来ました。

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大岡越前か勤めた南町奉行所

南町奉行所はご存知大岡越前守忠相が奉行として努めたところで知られています。

大岡忠相は江戸中期の人物で庶民の為の施政をし、庶民に人気のあった奉行でした。

大岡裁きでは『三方一両損』が有名な話でテレビ時代劇の話にも登場したりしました。

南町奉行所跡はJR有楽町駅の中央口を出た処に在ります。本来は立看板などそれらしい標などが建っていそうなものですが、何でしょうか設備関係の収納箱を石碑に偽装して『南町奉行所跡』と書かれていました。

北町奉行所はちゃんと造られているのにどうしちゃったのでしょうか。

とは言え、その横には当時の石組みがありそれなりの雰囲気はありました。

南町奉行所の屋敷は2720坪ほどあり、碑は屋敷の境界線あたりに建てられています。当時敷地は碑から見て有楽町駅の反対側までありました。

現代の南町奉行所跡地は、JR有楽町の駅が建って毎日何万人という人が行き交っている場所になっていました。

遠山の金さんが勤めた北町奉行所

南町奉行所から約1kmほど離れた処に北町奉行所はあります。駅で言うとお隣の東京駅になります。

北町奉行所で有名なのがご存知遊び人の金さんこと遠山左衛門尉景元です。

因みに金四郎は通称です。

放蕩していた若い頃の呼び名が金さん。その後家督を次ぐ決心をし、幾つかの役を経て北町奉行所の奉行に就任。

時代劇では、お白州で悪人相手にもろ肌脱いで、派手に桜の入れ墨を証拠として見せ、有無を謂わせぬ裁きで一件落着となるが、実際は、若い頃に入れた入れ墨を隠しながら仕事をしていたそうです。

北町奉行所は約2630坪余りの敷地があり、現在の東京駅の一部と丸の内トラストタワー本館の一部が敷地にあたります。

今は埋め立てられてしまったお堀は外堀通りとなり、永代通りと交差する処には当時呉服橋がありました。

南町奉行所も北町奉行所も目の前は当時はお堀だったんですね。

江戸城外堀の石垣の再現

トラストタワーへ行く小径がありそこに北町奉行所跡碑があるのですが、その他にもこの小径には「江戸城外堀の石垣の再現」「北町奉行所跡の石組溝」「玉川上水をイメージした親水空間」「玉川上水跡の床埋め込みライティング」などのちょっとした見所があります。

北町奉行所の跡地はこちらもJR東京駅の敷地の一部と都の都市開発で高層ビルが建っていました。

次は八丁堀にある与力・同心組屋敷跡地へ行ってみましょう。

中村主水も住んでいた八丁堀同心長屋

中村主水は藤田まこと演じる役柄で、『必殺仕事人』に登場する町同心です。

職場ではうだつの上がらない昼行灯と揶揄されているが、晴らせぬ恨みを晴らして欲しい人のため、金で人殺しを請負う裏稼業を持っている設定で当時人気のあったテレビ時代劇である。

今は藤田まことさんがお亡くなりになったので主人公は中村主水から渡辺小五郎に代わり東山紀之さんが演じています。

与力・同心の長屋は当時の町名で言うと岡崎町、七軒町、北島町、亀島町あたりに組屋敷がありました。

今で言うと八丁堀から茅場町界隈にあり、当時は地蔵橋通りと呼ぼれていた鈴らん通りに面していました。

今はビルが立ち並んでいて当時の面影を見つけることは難しいですが江戸の人達も歩いたであろう道はちゃんと残っています。

与力・同心組屋敷の敷地は、与力で300坪、同心は100坪の敷地が与えられていました。

この敷地に家族と一緒に暮らしていたかと言えばそうではなくて、屋敷の一部もしくは全部を人に貸して店賃を取っていたそうです。

同心は与力の補佐役で俸禄も与力よりか少なかった訳ですが、この様に家賃収入や付け届けなども結構あったようで、意外とお金はあったようです。

因みに、前出の中村主水は南町奉行所の定町廻り同心です。

定町廻りとは決まった順路を警らする同心のことで当時はエリート花形の役職でした。

ということで八丁堀にあった与力・同心組屋敷跡地は今はオフィス街になって幾つものビルが立ち並んでいました。

江戸散歩に役立つアプリ

今回都内の江戸の史跡を訪ね歩くのに役立ったのが『大江戸今昔めぐり』と言うアプリです。

江戸の古地図片手に街を歩き、実際の風景と見比べで見ても果たして自分が立っている場所が古地図の何処なのかイマイチ曖昧で判らない場合があります。

それを解消してくれるのが「大江戸今昔めぐり」です。

このアプリの優れたところは、江戸の地図と現代の東京の地図を並べて比較したり、重ねて表示したりすることが出来ることです。

特に優れているのが、重ねて表示した時透過処理をしているのでスライダを左右に動かすことで江戸と現代の地図を行ったり来たり出来ることです。

今自分が立っている場所が江戸ではどんな場所だったかがひと目でわかる優れものです。

なかなか良く出来たアプリだと思います。

大江戸今昔めぐり

こんな感じで江戸と現代の地図を重ね合わせて表示することが出来ます。

そして何とエリアが拡大したらしく、今では江戸の他に川越と駿府の古地図も提供されています。

然し、今から150年以上も昔の日本は、着物を着て丁髷を結って、お侍さんは大小をぶら下げて歩いていたと思うと、日本人はこの150年で外見が大分変わってしまったんだなと思う次第です。まあ外見だけではなくて精神的にも大分変わってしまったと思いますが。

川越は小江戸と呼ばれて人気のスポットなので実際に行って地図を重ねてみたいですね。

更に大阪や京都なども興味があるので、地図が実装されたら実際に行って見たくなります。

「大江戸今昔めぐり」は江戸時代の東京がどんな感じだったのか体感出来るお勧めのアプリです。

これから徐々に春めいて来ます。使い方は簡単なのでスマートフォン片手に都内を散歩してみては如何でしょうか。

江戸の町は川や堀が多かった

こうやって江戸の古地図と一緒に歩いて見ると、江戸の町は、さながらベニスの町に匹敵するくらいじゃないかと思うほど川や堀が多いことに気付きます。

今では車優先の都市開発で神田川の上に高速道路が走っていたり、暗渠にして道路になったりしています。八丁堀も今では地名だけ残って堀はもう有りません。

当時のままに川や堀が残されていたら東京も大分違った景観になっていた事でしょう。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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