昼下がり、コーヒー片手にぶらぶら歩く。
こういう時間が、年々ありがたくなってきた。
ふと、通りの端にある古い店の看板に目が止まる。
「ゑびす」
あれ、と思う。見慣れているはずの言葉なのに、どこか引っかかる。
そうか、「えびす」じゃないのか。
普段なら気にも留めないのに、一度気づくと妙に気になる。こういう小さな違和感って、案外おもしろい。
■ 「ゐ」と「ゑ」、昔は普通に使っていた
いまではまず見かけない「ゐ」や「ゑ」。
けれど昔は、これが普通だったらしい。
「ゐる」「ゑびす」どちらも、現代なら「いる」「えびす」と書く。
なぜ消えたのかといえば、理由は拍子抜けするほど単純で、発音が同じになったからだ。
「wi」と「i」
「we」と「e」
区別がつかなくなれば、わざわざ文字を分けておく意味もない。
使われなくなったものは、静かに消えていく。
なんというか、日本語は意外とドライだ。
■ 「を」も本当は消えていたかもしれない
ここで少し面白い話。
「を」も、もともとは「wo」と発音されていた。
今は完全に「お」と同じだ。
だったら「ゐ」や「ゑ」と同じように消えてもよさそうなものだが、これがしぶとく残っている。
理由はシンプルで、「役に立つから」。
「ごはんを食べる」この「を」がなくなると、文章が急にぼやける。
音は同じでも、意味の区切りとして必要だった。
こういうところを見ると、日本語ってなかなかバランス感覚がいい。
■ 消えたはずの文字が、なぜか街に残っている
さて、本題はここから。さっきの「ゑびす」の話に戻る。
消えたはずのひらがななのに、街を歩いていると意外と見かける。
とくに、少し年季の入った店。暖簾だったり、木の看板だったり。
「ゑびす」
「ゐなり」
こういう表記、見覚えがある人も多いんじゃないだろうか。
不思議なもので、読むこと自体はできる。
だけどほんの少しだけ、空気が違う。
■ 古い文字をあえて使う理由
じゃあなぜ、わざわざ今もそんな文字を使うのか。
たぶん、理屈よりも感覚に近い。
「えびす」より「ゑびす」のほうが、ちょっとだけ“それっぽい”。
老舗感というか、積み重ねてきた時間の匂いがする。うまく言えないけど、味がある。料理でいえば、出汁みたいなものかもしれない。
表には出ないけど、全体の印象を決めるやつ。言葉も同じで、意味だけじゃなくて、雰囲気を連れてくる。
■ 消えたのは文字じゃなくて「音」
こうして考えると、少し見え方が変わってくる。
消えたのは、ひらがなそのものじゃない。正確には、「音」のほうだ。
音がなくなったから、文字の出番が減った。ただそれだけの話。
それでも完全に消えきらずに、看板や名前の中で残っている。
こういうの、嫌いじゃない。
なんというか、街の中に小さな“時間の層”がある感じがする。
■ まとめ:違和感は、ちょっとした入り口になる
普段、言葉なんて意識しない。
けれど「ゑびす」みたいな違和感に出会うと、少し立ち止まる。
そこから、昔の音や言葉の変化に思いが伸びていく。大げさな話じゃない。
ほんの数秒の引っかかりだ。でも、そういう小さなきっかけがあるだけで、見慣れた街が少しだけ違って見える。
次に古い看板を見かけたら、ちょっとだけ気にしてみるといい。
たぶんその一文字に、思っている以上の時間が詰まっている。